昭和49年12月01日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
心の内を改めることが第一と。心掛けを変えることが第一というふうにも頂いて良いと思いますね。信心はにちにちの改まりが第一と言う、あらたまって行くことなのですけれども、今日は、信心しておかげを頂くというには、どういう様な心の状態、どういうような姿勢で、お参りをしたらよいか、お話しを頂いたらよいかと言う事を、まず分からなければいけないと思う。
昨夜は月末ですからいつも月末御礼信話会。ここお広前いっぱいに輪をかいて、銘々にお話しをなさる。とにかく一時間余りの事で、一言ずつでもみんなお話しを、お礼のつもりで神様へおかげを頂いておる話をさせてもらうというので、始め何人かの方達に、お話しをしてもらいました。最後に時間がございませんから、私がそのものズバリ、一言だけ、今一番感じておること。今自分が頂いておるもの、思わせて頂いておることを、一言ずつ、私が言ってくれと。
昨日もそのことについて話した事でしたけれども。わかる信心から感ずる信心わかると言う事も有り難い、けれどもあヽ有り難かったと感ずる。そういう信心が段々要るんだという意味の事を話したんですけれども。そのことをズバリにとにかく今、あなたが一番感じておる事を話してくれと言うて、私が申しました。それからずうっと回って私の方の三番目の息子であります、幹三郎にそのことズバリで一言と言った所が、早くこの会合が終わればよいと思うとるとこう言うんです。
余程睡かったか何かでしょう実感ですからね。どうですか皆さんこうやって、朝の御祈念を頂いて御祈念が長い長い、ほんに御祈念が早う済めばよかけれど、勿論尚更お話しは、尚早う済めば良いのにと言った様な事はないでしょうか。御祈念が長過ぎるお話しが長過ぎる。問題はこっちはおかげさえ頂きゃよかと言った様な考え方ではいけんのです。心の内を改めることが第一と。
心の姿勢を作ることが第一。一番始めにここへ参っても、神の言う通りにする者は少ないと、こう言ってられるがここへ参っても本当に参りよるか、拝みよるか、先生の御祈念中は、眠っとってよかと思うとる様なお参りの仕方やら、御祈念じゃいかんと思うです。ここへ参っても神の言う通りにする。ここへ参っても神の言う通りというか、こうして皆さんに、お話しを聞いて頂いておるのは、神の一言なのです。
神様のお話しなんです。それをただ私の口を通して神様の御言葉を、皆さんに聞いて頂いて伝えておるのです。ですから全部が全部覚えて行かなくっても良いです。けれども覚えるの覚えないじゃない、第一今日の御理解はどげな御理解じゃったじゃろうかと言う様な事では、おかげの頂ける筈がありません。お話しの筋をすっと聞かせて頂いておるとです、大体その通り。
ここの村の久保山さんという方が、毎朝朝の御祈念に参られます。最近はその有り難いが身について来て、有り難うして有り難うしてこたえん。それでそれを家族の者へも話して聞かせたり、又は示現活動にやらせて頂く時に、本当に親先生の仰る言葉を、本当言うたら一句洩らさず覚えて帰って、その通りの話をさせて頂いたら、私が有り難いと感ずる様なものを、皆さんも感じて下さるだろう。
毎日この頃はその事をお願いなさる。どうぞ親先生の話を間違わん様に、家に帰っても、又人にも伝える事が出来ます様にという、お願いをなさりよった。そしたら夕べでした夕べ遅う参って見えてから、息子さんがカセットを一台買うて来てくれた。昨日何か故障だったそうですから、今朝は出来なかった訳ですけれども。やはり一心の思いと言うものはねそんなもんです。例えば十五分か三十分位のお話なら、私達は素晴らしいと思うて頂いたら暗記して帰ります。
一時間位のお説教であヽ素晴らしいと思うて頂いたなら、大体一時間ぐらいのお説教なら暗記してお話致します。問題は頂く一心です。一心とはここには迷いのない事と仰るがです。お話しを頂き他の事ども考える様な事では、心の中に迷いがあるのですからおかげにならんです。心も体も一心にそのお話を頂くと言う事になり有り難いという、お話の筋と言うものを覚えて行ったら、親先生が話しなさった事をそのまヽ家に帰って、それこそカセットのごとそのまヽお話しが出来る位な。
私は一心をもってお話しは頂かなければいけないと思う。でなかったらこここそが頂きどころだと。こここそを頂いて帰らんならんという、一言でも良いからです神の一言は、舟にも車にも積めぬ程のおかげがあるとは仰ってない。舟にも車にも積めぬ程の神徳があると仰せられる。神徳の込められた言葉でありますから、一言でも頂いて帰ればです。おかげになるのではなくて、神徳があるのですから、その一言を本気で守ると言う事てす。行ずると言う事です。
それを頂かずして例えば、一番はじめから申しますとです。心の中を改める事が第一。御教えを頂くその姿勢を、まず作らずして夕べの幹三郎じゃないですけれども、そのものズバリ今の気持ちはどうかと私が聞いたらです。一時間の信話会がです早く済めばよいがと思うておるのが実感だと言う事。睡い時には早う立とうごとしてこたえん、早う済めば良いがと思う。
だから皆さんもです。本当におかげを頂きたいならばです、そう言う事では御祈念が長いから、お話しだけ頂こうというて、折角お参りをして来てお話しを頂いてもです。そのお話しを何が何やらわからないで帰る様な事ではおかげにならん。一心をもって迷わない心でです、頂いたら三十分位なお話しは、それこそ帰ってそのまヽお話しが出来る位になからなければ、一心に頂いておったとは言えない。
又は今日頂いて帰る例えばここだけはと言う所。今日はここん所を今日一日の行の上に表して、頂かせて頂こうと言う事になればです。神の一言は舟にも車にも積めぬ程の神徳があると仰せられるのですから、それを守り行ずるからおかげになるのです。それをせずしておいてです全然信心をさせてもらう姿勢を作らずしておいて、頂く姿勢も作らずしておいてそしてお話しは何が何やら分からじゃったと言う様な事であって、いや少しは覚えとったばってん、家に帰ってもそれを行じもしないで。
おかげが頂かれんというのは虫がよすぎるです。皆さん昨日の御理解を覚えておられるですか。昨日の御理解は神様が一切が神様の御物だと。それはお宮さんの境内のお土地であろうが、お寺さんの御地内であろうがです。みんな神様のものだと。自分のものとて一つとてもない。それを自分のものの様な思い違いをして、同時に人情を使わず、神情を使えと言う事を頂きました。
昨日御理解を頂き終わってから、或る方がこういうお届けをなさるのです。今日は先生、本当よか御理解を頂きましたち。どこが有り難かったですか。私は実は隣の屋敷の自分方に空き地がないものですから、隣の屋敷に自動車を置かせてもらいよる。本当ですよそれでお歳暮の一つも上げんならんと思いよった。今日のお話しを頂いておると、誰のものでも彼のものもない、神様の御物と言う事が分からせて頂きましたから、そういう人情は使わん事に致しましたと言う事を言うんです。
皆さんどう思いますか。皆さんもそういう様な風に、頂いた方がありゃせんですか。お使い物なんかでもです、人間心を使うちゃいかん。それよりか神様に持って来にゃんという様な、御理解を頂いたですね。だから神様にさえ持って行きゃ、お使いもんもする事はいらん。神様の御物だから他所のものを借っとっても、お金も払う事はいらん。贈りものもする事はいらん。
私はここん所を一言言う事を落としとった様な気もするんです。そういう間違いがありはせんかとも思うたですけれども、よもやそういう頂き方はせんだろうと思うた。例えば、家を借りとるからというて、それは○○さんのものじゃなくて、神様のお家だから、もう家賃も払わんでんよかと言った様な言い方なんです。そげな事じゃないですよね。ちゃんと、家を借りとるなら、家賃を払うのは当然の事。当然の事だけども、当然以外の人間心を使うてはいけないと言う事でしたよね。
だから同じ頂くというても頂き違いをしてです。それを行じた所でそれはおかげになりません。神様が分かってくれよと言うて下さっておる所を、分からなきゃいけん。神様の心が分からにゃいけん。
皆さん今日はここの三十四節からです。ここへ参っても神の言う通りにする者が少ないと言う所を、神の言う通りを聞いてはいないもん。忘れてしもうとる。今日の御理解はどげな御理解じゃったのち言うごとある事では、まず第一おかげは受けられないとせにゃいかん。同時に最後の所の、心の内を改める事が第一なり。神に一心とは迷いのない事ぞと言う事をです。勿論日々の改まりと言う事もですけれども、改まった姿勢でお参りをして来い。改まった姿勢で神様へ思いを向けて行け。
改まった姿勢でお話しを拝聴しろと言う事なんです。そして一言でもよいからそれを今日一日の行の上に、例えば不平不足を言うなと言われたら、今日一日は本気で不平不足を言うまいという様にです。行の上に現して行けばそのお話しの中には、只の話じゃない。神様のお話には、その一言の中に神徳が含まれとるのですから。舟にも車にも積めぬ程のおかげがあるとは仰ってない。舟にも車にも積めぬ程の神徳があるのです。その神徳を受けるのです。だからその神徳におかげが勿論ついて来るのです。
だから皆さん本気で御祈念中に迷いなんか、眠気かなんか来る様な御祈念で、おかげが頂かれる筈はありません。また御理解を頂き終わって、今日はどげな御理解じゃったよという様なことでは、おかげにはなりません。神徳を頂いて帰る事は出来ません。だからここへ参って来ても、神の言う通りにすると言う事。言う通りにするもう一つ神様からどんなに言うて頂いても、何が何だか一つも分からなかった。
眠り半分で聞いとったけん、分からじゃったと言った様な事では、おかげを頂く御神徳を頂く第一歩から間違っているという事です。昨日は福岡の嘉朗さんが、こういう発表をしておりました。最近ここで大黒様奉斉をさせて頂くので、自分も大黒様をお祀りさせて頂いて初めの間は、とても効きござった。所がこの頃いっちょん効かっしゃれんごとなったという話をしておりました。皆さんどうでしょうか。
もうここから百六十体余りの大黒様が出ておられますから、百六十人の方が大黒様を奉斉し、又拝んでおられる訳になりますが、嘉朗さんが言われる様に、初めの間は効きござったばってん、この頃効からっしゃらんと言った様な感じはないでしょうか。初めの時と拝み方が変わって来とるのですよ。勿論嘉朗さんが言っております様に、大黒様と拝む時には、勿論親先生の姿を、ありありと心の中に描いて、大黒様じゃない親先生と言うて拝みますと言うけれども、最近はその大黒様の功徳が無くなって来た。
そこで最近考えつかせて頂いた事なんですけれども。最近ここでは表行と言う事を全然しなくなりました。形の行です二、三ケ月前までは、それこそ断食をしたり水を被ったり、様々な断ちものをして、お酒の好きな人がお酒を断って、神様にお願いすると言った様な信心がです、二十数年続いて来た。皆さんそれをなさる。それを私は咎めなかった。私自身は致しません。それは昔の事です。
けれどもやっぱり一生懸命お願いする、その姿勢というかそのお願いをする。こんな思いでお縋りしておりますというわけで、好きな酒を断ったり水を被ったり、又は断食までもして、お願いをすると言った様な信心は、合楽の信心ではない。そういう表行を止めてしまう。そういう修行をするごたるならば、合楽には参らせんという程しに、強く言っている訳です。ですからこの頃では、心行が中心である心の行である。
ところが心行の頂き違いがある訳です。心の行じゃから朝参りもせんでんよか。心で拝みよりゃよか心で修行しよりゃよか。朝はいうならば寝放題形の行じゃない、心の行だからと言う様な、さっきの頂き違いの話しじゃないけれども、表行心行の頂き違いをしておる様な向きが段々最近感じられます。そこでです嘉朗さんが言うておるのに、大黒様を拝みながら、親先生私はこの頃大黒様のおかげが、段々頂けんごとなって来たと言う事は、自分の信心に迫力がなくなって来た。
元気がなくなって来た生き生きとしたものを欠いで来た。親先生あなたが持っておられる、生き生きとした心を暫く私にお借し下さいと言うてお願いする様になった。そしてそれが他力であると言う事を、この頃感じますという話しをしております。他力です自分の我力でお参りして来よるとじゃない。親先生の力を借りてお参りをしておる。神様のおかげでお参りさせて頂いておるという、それが他力なんです。だから他力というのはもう寝とってよいとかじっとして、拝んとけばよいというものじゃないのです。
神様から生き生きとしたお心を頂いて、今までよりも増した信心修行がでけなければいけんのです。只表行を廃止しただけの事です。火の行水の行そういう行を、廃止しておるだけである。信心修行は絶対信心にはつきものなのです。その信心の修行がつきものですから、信心修行にはお徳が受けられるのであり、そのお徳にまたおかげが頂かれるのです。自分どんがいうならば、我力で参って来ると言う事はこれは自力です。
神様のおかげでお参りをさせて頂くのですから、今日は眠かけんで神様が参らんでよかと言いござるばいのと言った様な信心ではいかんと言う事です。嘉朗さんじゃないけれども、親先生お力を借して下さいとこう言うのです。そしたらこの頃はです腹の底から、生き生きとした心が湧いて来るから不思議ですという、お届けをしておりました。そして最近、親先生が言われるところの、他力とはこれだと思うたという話しを致しております。今日の御理解でもそうです。
先生のお力を頂きたい、先生の祈りの力でいうならば、お参りをさせて頂いておる。だからそれを願わなければいけん。神様にお願いをしなければいけない。どうぞ御祈念中眠気どんが来る様な事のございません様に。そりゃ人間ですから、眠気も来る時もありますけれども、それが時々ならよかばってん眠り癖が付いたらもう駄目です。私は先日私は座っとっても、やっぱり眠気がつきますよここで。そげん時には耳掻きをする事に決めてる。だから私がここで耳掻きよる時は眠か時です。
ははぁ耳掻きござるけん、先生が眠か時ばいなと思うて大体間違いないです。そうするとスッと目が覚めるです。そしたらこの頃から、素晴らしい銀で造ったカンザシを頂いた。良いですね柔らかです。れで今まで使いよったつが、不用になりましたから、私が末永先生にそれを上げました。それがちぃと眠り癖が付いとるごたるふうです最近。眠か時に眠るのじゃなくして、癖になったらいかんです。だから私は眠か時には耳掻きよるこげんして。例えばですよ火の行水の行はいけないと言われてもです。
それをおかげを頂くための行ではなくてです、今日は眠うして眠うしてこたえん。御結界の奉仕をせんならんけども、眠うしてこたえん。そげん時にはです水の一杯もかかると良いです。それは修行じゃない目が覚める様にかかるとですから。親先生が水を掛かるとはいかんと言われるから、例えばそれこそ新井白石という人じゃないけれども。お勉強しよって眠気が来たら、必ず真冬でも井戸端に出てから水を掛かって勉強したというのです。これは修行じゃないです。
勉強をさせて頂くために、眠気がついちゃいけんから。御結界に奉仕をするのに、一生懸命御祈念させてもらわんならんと思うのに、眠気が来ちゃいかんから、水掛かって目を覚ましておいてから御祈念をする。今日はそう言う所を聞いて頂いたんです。いうならば神様を拝むお話しを頂くお参りをする。その姿勢根本の所を聞いて頂いたんです。そして本当いうなら、二十分三十分のお話しは、そのまヽ暗記が出来る位にならにゃいけんです。迷わずに一心でお話し頂いたら二、三十分位なお話は覚えるです。
難しい事なら、なかなか覚えませんけれども、お話しなのですから。だからそれでも出来んならばです、すぅっと頂いとってはぁ今日は、ここだと言う所をです、一言ぐらい頂いて帰って、それを行じ守らせて頂くと言う事にならなければです。おかげは受けられません。そういう姿勢もとらず、そういう頂き方もせずしておいて、おかげが受けられんというては、神の言うことは、道に落としてしまい。我が勝手にして、神を恨む様な事になりかねないのです。参ったばってん、おかげ頂き切らんじゃったと。
第一頂き違いがいけません。頂き違いがあっては、いくら守っても、おかげになりません。同時に、お参りして来る心の状態心がけです。そこん所を改める事が第一。一心とは迷いのない事。一心不乱と申しましょう。心が乱れないと言う事その一心不乱に、御祈念をする。一心不乱に御理解を頂く。そしてそれを又一心にです聞いて帰って、人にも伝えさせて頂けると同時にです。
自分自身も頂いて帰ったその事柄をです。一事でもよいから本気で家業の行の上に現す。その日一日の行き方のそれを、中心に生活をさせてもらうと言う様な行き方をさせて頂いて、始めて神の一言は千両の金にも変えられない。有り難く頂いて帰れば、土産は舟にも車にも積めぬ程の神徳がある。有り難く頂いて帰らなければ、舟にも車にも積めぬ程の神徳という事にはなって来ない。
ボンヤリして今日の御理解はどげな御理解じゃったろうと、どういう御神徳の内容のあるお話でありましても、それは只のお話しであります。御神徳を頂いて帰る様なもんです。御理解をしっかり頂いて帰ると言う事は。それを修行と思うて、守り行ずるからおかげが受けられるのです。今日は三十四節をそう言う様な意味で、いうならば信心の姿勢が自分だんなっとらんと言う事を、先ず分からせて頂いて、信心の姿勢がなって来る。おかげを頂きますから、おかげもまた成就して来る事になるのです。
どうぞ。